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2012/12/11(Tue) 08:38
890◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:40:46 ID:HF2.EDpE0



キャスティングについて。



ベアトリス・ヘイスティングス→とにかく動かし難い、この一言に尽きる→ハルヒ。

ポール・ギヨーム→前衛芸術作品のコレクター →オタク。

マルク・シャガール→愛を描いた画家→キル夫。

ベラ・ローゼンフェルト→シャガールは愛妻家だったんだって→キル子。

ディエゴ・リベラ→デブでブサイクでスケベでアカで→クマー。

シモーヌ・ティルー →メンヘラビッチストーカー扱いしてはいけない(戒め)→ナギ。

モイズ・キスリング→お人好しな画家→ギャル夫。

ジャン・コクトー →コクトーは鷲鼻のチートホモ、アカギーも鷲鼻のチートホモ→しげる。

レイモン・ラディゲ→14歳でベアトリスに摘まれて?15歳でコクトーにがん掘りしてもらって20歳で死んだ少年→キョン。

キキ→職業柄、基本全裸→ホロ。

藤田嗣治→哀れな日本人画家→高和。

ハイム・スーチン→あれ?、スーチンとスモチって発音が似てる・・・な画家→ちゅるや。

モーリス・ユトリロ→マジキチ風景画家→でっていう。

ジュール・パスキン→自殺した画家→ドクオ。



何で解説編に入ってない登場人物がいるのですか?

モディリアーニが肖像を描いていないからです(一部の例外はありますが)。


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891◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:41:48 ID:HF2.EDpE0



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                     マルク・シャガールについて
                     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄


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892◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:42:28 ID:HF2.EDpE0



    ─────────────────────────────────────────
     マルク・シャガール(Marc Chagall) 1887年7月7日 - 1985年3月28日。

     エコール・ド・パリの画家。

     帝政ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシ・ヴィツェプスク)にユダヤ人として生まれた。

     シャガールは愛妻家で有名。

     妻のベラは画家のモデルで、霊感(インスピレーション)の源泉で、美紳(ミューズ)だった。
    ─────────────────────────────────────────


        マルク・シャガールとベラ・ローゼンフェルト。
        


        晩年のシャガール。
        


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893◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:43:53 ID:HF2.EDpE0



マルク・シャガールの出身は帝国ロシア。

なのでロシア人かと思いきや、実はユダヤ人。

ロシアはユダヤ差別が強く、一流の芸能人や文化人、芸術家を除いて
 ユダヤ人は予め決められた地域に固まって生活しなければならなかった。

その一つがヴィテプスク(現在ではベラルーシ共和国の都市)。

当時のヴィテプスクはキリスト教とユダヤ教の混在した人口の半分を保守派ユダヤ人が占める街だった。



1887年、マルク・シャガールはユダヤ人の両親のもとに9人兄弟の長男として生まれた。

生家はヴィテプスク、ユダヤ人地区郊外の、とても大家族が生活したとは思えない小さな一軒家だった。

家の周りには、山羊などの家畜が放し飼いになっていた。

シャガールの作品には頻繁に山羊が登場するが、多分、子供の頃から慣れ親しんでいたのだろう。


父、ザハールは魚卸業(倉庫とか港で樽を担いで運ぶ仕事)に就いていた。

雨の日も風の日も一年中、メッチャ重たい塩漬けニシンの詰まった樽を運び続ける父の姿を見ると
 シャガール少年は子供ながらに胸が痛むのを感じたと、語る。

母、イタは自宅で雑貨屋を営んでいた。

働けど働けど、それでも貧しいのだった。



母親は息子のシャガールをユダヤ人の学校ではなく、賄賂を積んで一般の私立学校に入学させた。

ユダヤ人がロシア人の学校に通うのは、規約上は不可能であったが
 ともあれシャガールはロシア語を学ぶ事が出来た。

シャガールは元々はイディッシュ語(ユダヤ語みたいなの)を喋っていた。


母親は息子を将来は医者か弁護士にして、貧乏で苦労させないようにと考えていた
 勿論、貧しい自分達の生活も助けてもらいたかった。

しかし、シャガール本人は将来は詩人とか歌手になってアーティスティックな仕事がしたいと考えていた。


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894◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:45:06 ID:HF2.EDpE0



当時のロシアでは宗教上の理由(偶像崇拝禁止?)みたいなので絵を描く事を禁じられていたし
 ユダヤ人であるシャガールはヴィテプスク以外では市民権を持っていなかったが。

シャガールは郷里の画塾で学んだのち、1907年ペテルブルグの帝室美術奨励学校に入学。

翌年にはレオン・バクストの美術学校に入って、ヨーロッパ近代美術に関する知識を初めて得た。



1909年、シャガールは地元ヴィテプスクにて友人の家を訪ねた際、そこに偶然いたベラ・ローゼンフェルトと出会う。

「雷に打たれた様な衝撃──私と居るべきは他のどの女性でもない──目の前には私の妻がいた」

シャガールはベラに一目惚れしてしまった。

余談だが・・・この時、シャガールには別に交際している女性がいた
 本人曰く、若い頃の自分は中々の美男子で結構モテていたのだそうだ。

シャガールは今直ぐ結婚しようって勢いだった、ベラも恐らく乗り気だったのだろう。

ベラの両親は頼むから待ってくれとシャガールを説得していた。

1909年当時、22歳の画家の卵だったシャガールに対して、ベラは13歳の中学生だったのだ。

結局、シャガールは結婚誓約書を書くに至った。

ベラは深窓のお嬢様で、父は街の中心地で宝石や時計を扱う店を3軒ほど経営していた。

ベラもシャガールと同じくヴィテプスクにて生まれたユダヤ人だったが
 郊外のあばら家に住む極貧のシャガール家と違い、ローゼンフェルト家は街一番の裕福な一家だった。



1910年、ユダヤ人の代議士ビナベルの援助でシャガールは23歳でパリに出る。


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895◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:46:10 ID:HF2.EDpE0



外国人だらけのパリにおいても、何処に居ても自分がユダヤ人だと感じた、とシャガールは語る。

シャガールはモンパルナスの通称「ラ・リュシュ」(蜂(はち)の巣)に住む。

モディリアニ、スーチン、ドローネーらを知り、さらには詩人のサンドラール、アポリネール、カニュドらと親交を結んだ。

シャガールは貧しい画家であった。

お金がなくて、昼ご飯はキュウリの欠片みたいなしか買えなかったとか
 魚を買ってきて、一日目に頭から半分を食べ、二日目に残りの半分を食べていたとか。

スーツ一式しか服を持っておらず、絵画制作の際は絵具で汚れたら困るので全裸になって絵を描いていたとか。



初期はキュビズムに影響された絵を描いていた。

シャガールの絵には詩的なものが在るらしい。

無名時代においても、シャガールの作品は詩人の間では大ウケであった。

蜂の巣のシャガールのアトリエを訪れた美術批評家で詩人であるアポリネールは
 シャガールの作品を見ると、手を広げて微笑み「シュールレアリスムだ」と述べ、早くから注目していた。

シャガールは詩人のサンドラールとは親友関係にあった。

1911年のアンデパンダン展に初出品。



1914年にはアポリネールの紹介でベルリンのデア・シュトゥルム画廊で最初の個展を開くためドイツを訪問。

個展を終えた後、シャガールはその足で、モスクワ行きの列車に乗った。

妹の結婚式や、地元の展覧会、愛しのベラに会う為に故郷ヴィテプスクに戻るつもりだった。

が、帰省の途中で第一次世界大戦が勃発。

シャガールはパリに戻りたかった。

実家に留まるのは2週間くらいの予定だったが、戦争によって身動きが取れなくなってしまった。


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896◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:47:12 ID:HF2.EDpE0



1915年、シャガールはベラ・ローゼンフェルトと結婚する。

シャガールはパリで生活しながらもベラを忘れた日はなかったし
 ベラはロシアでシャガールの帰りをずっと待っていたのだった。

ベラの両親は元々この結婚には反対だった、娘にはもっと良い結婚相手をと考えていたのだった
 しかし、二人は愛の力でもって、これを乗り越えた。

この翌年、娘が誕生。



シャガールはこの頃から己の半生を綴った自伝「我が生涯」を書き始める、発売は多分1922年頃か?
 イデッシュ語で書かれたこの自伝をベラがフランス語に翻訳した。



シャガールはローゼンフェルト家のコネで大戦中は戦争経済局で働き、兵役を免除してもらった。

1917年にロシア革命が起きて、帝国ロシアが崩壊、ソビエト連邦が成立。

ユダヤ人にも人権が認められた。

ヴィテプスクの地区美術委員に任命され、さらに美術学校を創設し、シャガールはそこで校長職に就く。

マレービチやリシツキーを教授に招くが、やがてマレービチと意見を異にしたため
 1919年には職を辞してモスクワに移り、国立ユダヤ劇場の壁画装飾などで活躍した。



その後、シャガールは社会主義国家に嫌気がさし
 1922年にベルリンを経由して、1923年に家族を連れてパリに戻った。


シャガールがその後、生まれ故郷のヴィテプスクに帰る事はなかった。

第二次世界大戦中にナチスドイツの進軍によって
 ヴィテプスクの街の9割は破壊し尽され、瓦礫の山と化したのを噂で聞いたからだった。


実に9年振りのパリであった。

シャガールは、すぐさま5年間生活した蜂の巣に向かったが
 かつて自分のアトリエだった部屋には、新しく別の芸術家が入居していた。

1914年にパリを離れる際にアトリエを厳重に施錠したはずだったのだが
 自分の居ない間に誰かが立ち入っていて、保管していた150点余りの絵画作品も紛失していた。


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897◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:47:56 ID:HF2.EDpE0



1923年、ヴォラールの依頼によりゴーゴリーの「死せる魂」及びラ・フォンテーヌの「寓話」の銅版画を制作。

1931年、ヴォラールの依頼で壮大な主題「バイブル」に取り組むためパレスチナへ旅行。

1939年、カーネギー賞受賞。

1941年、第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命した。

1944年、妻ベラ・ローゼンフェルトがアメリカで病死。

シャガールはショックで絵が描けなくなり、9ヶ月間引き篭もり生活を送る。

1945年、ニューヨーク近代美術館及びシカゴ・アート・インティテュートで回顧展開催。

1947年、終戦後、フランスに永住すべく再びパリに戻る。

1948年、カラー石版画「アラビアンナイト」発表。ヴェニス第25回ビエンナーレ版画賞受賞。

1950年、南フランスのバンスに居を定める。

南フランスで偶然ピカソと再会し、以後二人は親友となった。

1952年、バランチーヌ・ブロドスキーと再婚。

バランチーヌはユダヤ人女性で、シャガールをベラの死から立ち直らせた伴侶だったとか。

この頃、世界的な人気芸術家、巨匠となる。

1954年、ギリシャへ旅行。カラー石版画「ダフニスとクロエ」の仕事開始。

1956年、サーカスをテーマに石版画を制作。銅版画「バイブル」を発表。

1958年、「デッサンバイブル」カラー石版画25点制作。(60年発表)

1963年、パリ・オペラ座の天井画制作。東京、京都で大回顧展開催。

1965年、カラー石版画「エクソダス」制作。

1967年、生誕80周年を記念チューリッヒ、ケルンで大回顧展開催。ルーブル美術館で「聖書の使命」展開く。

1976年、東京国立近代美術館で個展を開く。

1985年、死去。 98歳、長寿であった。


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898◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:48:58 ID:HF2.EDpE0



   「私と村」マルク・シャガール作、1911年。
   

   「誕生日」マルク・シャガール作、1915年。
   

   「エッフェル塔の新郎新婦」マルク・シャガール作、1938、39年。
   

   シャガールが作った、多分、フランスの教会のステンドグラス。
   



作品の種類は油彩画、挿絵、ポスター、版画、彫刻、ステンドグラスなど多くあり。

作品数は1500点に及ぶ。

昔も今も人気が高く、美術市場では高く取引されている。


生まれ故郷、空飛ぶ人や動物、幻想的なもの、宗教的なもの、恋人達、結婚式、そしてベラ・ローゼンフェルト。

シャガールは愛がテーマらしい。

結論、愛は偉大。

以上。



シャガールとモディリアーニはエコール・ド・パリに属するが、特筆する様な交流はなかったように思われる。

モンパルナスのカフェや展覧会などで顔を合わす程度か。

何より、シャガールは世界大戦中はパリに居なかったし。


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899◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:50:50 ID:HF2.EDpE0


>>895参照にも少し出てきたけど・・・


ブレーズ・サンドラール(Blaise Cendrars) 1887年9月1日 - 1961年1月21日。

1916年にフランスに帰化したスイス出身の詩人、小説家、旅行家。

本名フレデリック・ソゼール(Frdric Sauser)。

15歳で故郷を出てロシアへ行き、その後シベリア、中国、モンゴル、ペルシアを回り、多くの職業を転々として帰国。

1912年、渡米して先駆的近代詩『ニューヨークの復活祭』を書く。

その後、パリ、モンパルナスを拠点とし活動、ボヘミアン達とも交流。

第一次世界大戦に際しスイス国籍の彼は外人部隊に入隊して従軍、負傷して右腕を失う。

戦後、片手で叩(たた)きつけるような律動の詩集『弾性詩19編』(1919)などで
 句読点の廃止や同時話法の使用など前衛的な手法を樹立した。

小説『切られた手』(1946)、『天の区分』(1949)はこの冒険詩人の回想を芯(しん)に据えたなかば神話的な自伝であり、
 『コダック』(1924)、『ハリウッド』(1936)は時代精神の記録写真ともいうべきルポルタージュであり
  『黄金』(1925)、『モラバジーン』(1926)、『世界の果てにつれていって』(1956)は強烈な破壊力をもつ物語である。

1961年パリ市文学大賞を受けた。



   ブレーズ・サンドラール。
   

   



   「ブレーズ・サンドラールの肖像」、モディリアーニ作、1918年?
   


サンドラールの証言によれば・・・

「モディリアーニは自分(サンドラール)の詩を諳んじながら、4時間足らずで肖像を完成させた」との事。


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900◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:51:55 ID:HF2.EDpE0



                     ∩___∩
                     | ノ      ヽ
                     /  ●   ● | クマ──!!
                    |    ( _●_)  ミ
                    彡、   |∪|  、`\
                   / __  ヽノ /´>  )
                   (___)   / (_/
                    |       /             ディエゴ・リベラについて
                    |  /\ \             ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                    | /    )  )
                    ∪    (  \
                         \_)


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901◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:52:54 ID:HF2.EDpE0



    ─────────────────────────────────────────
     ディエゴ・リベラ(Diego Rivera) 1886年12月8日 - 1957年11月24日。

     メキシコの画家、キュビズムの影響を受けた作風で、多くの壁画作品で知られる。

     メキシコのグアナフアトに生まれる。

     醜男(しこお)だけど漁色家で有名、政治的には左寄り。

     フリーダ・カーロの夫(美女と野獣とか言われていた)。
    ─────────────────────────────────────────


        ディエゴ・リベラ
        


        1930年、フリーダ・カーロとリベラ。
        


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902◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:54:50 ID:HF2.EDpE0



1907年、リベラは21歳くらい、パリにやってきてモンパルナスに住み、制作活動を行う。

初期はキュビズム風の絵を描いていた。

1920年、メキシコに民衆のための芸術を興すというダヴィッド・アルファロ・シケイロスの誘いに賛同してパリを離れた。

リベラはパリに居た無名画家時代から既に女たらしで知られ
 多くの女性画家と交際し、次々に子をもうけたが、1920年にパリを離れる際に全員見捨ててしまった。



1921年にメキシコに帰国、メキシコ壁画運動の中心的人物となる。

テンペラ画によって、メキシコの民族的な伝統と社会主義的な文脈を組み合わせた壁画を公共建築などに多く描いた。

この時期メキシコ共産党に入党し、教会や聖職者を攻撃したが
 その激しい性格とレオン・トロツキーの思想への関心などから多くの敵対者を生んだ。



1930年、画家のフリーダ・カーロと結婚。

1933年にはニューヨークのロックフェラーセンターに『十字路の人物(Man at the Crossroads)』
 と題する壁画を書き上げたがアメリカの建国者たちと並んで社会主義者のレーニンの肖像を配した
  壁画は発注者やマスコミの猛反発を呼び、完成直前に破壊された。


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903◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:57:56 ID:HF2.EDpE0



リベラはメキシコを訪れた多くの芸術家を家に招いた。

メキシコに亡命したトロツキーも家に招待するが、その後間もなく二人は仲たがいしてしまう。

その後にトロツキーが暗殺されたことで、彼も暗殺に関わったのではという憶測が流れることにもなった。

また、女性関係にいとまがなかったため、夫婦仲が極端に悪化する。

とりあえず別居してみたものの、彼もフリーダも不倫が続き、1939年に離婚。

しかし1年後に復縁、再婚すると、彼女が1954年に死去するまでは夫婦であり続けた。

健康に不安があったフリーダは妊娠するも結局、流産し二人の間の子供はなかった。

ディエゴ・リベラはフリーダを失った翌年の1955年に別の女性と再婚し、1957年にメキシコシティで死去、70歳。

リベラは芸術家としても政治思想にしても、反逆者であった。



     「Man Controller of the Universe」ディエゴ・リベラ作、1933年。
     


巨大な壁画で、描かれている人物は等身大らしい。



モディリアーニとの関係について。

>>705参照、モディリアーニはリベラの肖像を描いている。

モディリアーニは昼夜を問わずリベラの家を訪ね、さぁモデルに成ってくれって勢いだった。

1912、13年頃?には、ほんの短期間だがルームシェアしていた事もある。

二人は飲み仲間で、お酒を飲み交わしながら芸術論を、時には政治問題にいたるまでを議論した。

協調性が皆無で悲観的なモディリアーニの性格上、リベラと話が合う事は滅多になかった。

ある時、リベラは「風景画はある!」と言ったが、モディリアーニは「風景画はない、それだけだ」と言い切った。

モディリアーニは風景画が嫌いで?、現存する風景画は3点しかない、その内の一点は学生時代のもの。


そして厳密に言えば、リベラはメキシコで活動した芸術家であって、パリで活動した芸術家ではない。


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904◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:58:33 ID:HF2.EDpE0



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          .ソ、::l,.( _ リ、:|         l .`   /l: :/| i
            ,|::\__ ヽ|  xxx     ,  xx//|/ |/
            リl: ::| |           ′  //
             l::|リ ヽ    ` ― - 、   //             レイモン・ラディゲについて
             ,リ   `、    `"    /リ              ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ,----亠--- 、_`.、      / 彡
        // ̄ ̄⌒`ヽ` \::`::-、,_, ´.
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905◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 21:59:14 ID:HF2.EDpE0



    ─────────────────────────────────────────
     レイモン(レモン)・ラディゲ(Raymond Radiguet) 1903年6月18日 - 1923年12月12日。

     フランスの小説家、詩人。

     フランス、パリ郊外、サン=モール=デ=フォッセで生まれる。

     中学(リセ)入学の頃から詩作を始め20歳で夭折したので、経歴が短い。

     代表作は長編処女小説、『肉体の悪魔』(にくたいのあくま、Le Diable au corps)。
    ─────────────────────────────────────────


   レイモン・ラディゲ。
   


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906◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 22:01:22 ID:HF2.EDpE0



肉体の悪魔は未読なので、何とも言えないのですが・・・

1923年(ラディゲが死んだ年)に、ベルナール・グラッセ書店から出版された時
 16歳の小説家って謳い文句が付いていて、文壇から批判を浴びた。

メディアなどでお馴染みの天才少年商法ってワケですね。



実際、ラディゲは16歳の頃から肉体の悪魔の執筆に取り掛かり、推敲を繰り返して19歳(1923年)で発表
 師匠でホモ仲間のコクトーのコネクションでもって出版社のやり取りをして、遂に発刊に漕ぎ着けた。

作品が高校生と人妻との不倫を綴った反道徳的な内容で、虚飾を排した簡潔な表現だとか
 10代そこそこの新人小説家が書いたとは思えない完成度だったりで、肉体の悪魔はベストセラーとなった。



「君を忘れないために、僕はいつかこれを小説にする」、作中の台詞らしいが・・・

ラディゲは登場人物も事件もすべてフィクションであると強調したが
 自伝的な要素が含まれていることは否定しなかった。

ラディゲは文人としての名を築きかけるも、この処女小説を出版した年の瀬に腸チフスで他界。

その後、ラディゲは早熟の天才だとか、夭折の天才とか呼ばれている。

まるで彗星みたいに一瞬だけ光を放って、どっかに消えていった。

普通に詩人のランボーみたいでカッコいいと思う(ランボーは美形で、ラディゲは不細工だけど)。



モディリアーニが描いたラディゲの肖像画がある。

当時、ラデイゲは12歳って事になるのだけれど。

この時、既に、芸術家が溜り場にしていたモンパルナスのカフェに出入りしていたのだろうか。


   「レイモン・ラディゲの肖像」モディリアーニ作、1915年。
   

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907◆Xmxilj6xKU2012/11/11(日) 22:02:49 ID:HF2.EDpE0
以上、有難うございました。



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街灯の下で躍るのはやる夫 4
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